『攻殻機動隊sac_2045』のストーリーを物語研究家が考察してみた!(ネタバレあり)

今回解説する物語はNetflixで独占配信されたアニメ『攻殻機動隊sac_2045』です。
本作は神山健治監督と荒巻伸志監督の作品であり、現代社会論的な要素のある高度な作品なっているのが特徴です。そのため僕のような物語研究者や評論家の解説なしに本作の物語を理解するのは非常に困難な作品とも言えます。


実は本作は同監督(神山のみ)による2002年に放映されたアニメ『攻殻機動隊stand alone complex』の続編としても見れるようになっているので、本作の理解のため、まずは旧作との比較から紹介してゆきます。
(※この記事はネタバレを含みます。)



攻殻機動隊stand alone complex』対『攻殻機動隊sac_2045』

旧作が2002年放映、本作のシーズン1が2020年の放映ということで、そこには20年近いラグがあり、どちらもが現代社会批評的な色調を帯びた作品であるために、両作品の差異は平成初期と令和との時代精神の変化が如実に反映されています。

では具体的にその違いを見てゆきましょう。
まず旧作においてはアメリカという存在が日本にとっての絶対的な父として強力な権力者として描写されているのが特徴です。また他の神山監督作品でも『東のエデン』などではアメリカがそのような存在として意識されています。
なので神山監督は現代日本を敗戦国として、つまり戦後レジーム体制の継続という文脈において捉えていると考えられます。

というわけでアメリカ=父親という精神分析的な軸を中心に読み解くと神山版攻殻機動隊を大筋をつかむことができます。


旧作『攻殻機動隊stand alone complex』の要約


読者には旧作は未視聴の方もいるかもなので、ここで簡単に旧作の概要を示します。

旧作はこてこてのポリティカルフィクションであり、現実に日本で起きた癌治療薬の丸山ワクチン不認可事件を下敷きにした作品です。

攻殻機動隊の世界では電脳硬化症という難病に対する画期的な治療薬である村井ワクチンが利権がらみで不認可にされ、その代わりにマイクロマシン療法の新興企業であるセラノゲノミクス社の全く効果のないマイクロマシン治療が認可され、そのせいで多くの患者が犠牲となりました。

あるとき、そのことを偶然に知った天才少年ハッカーのアオイ(笑い男)は正義感から、その不正を暴くべく企業テロを起こすも、うまくいかず、結果的に笑い男は一つのシンボルとなり、多くの大衆に模倣されるという事件が起こります。この模倣犯のことを作中ではスタンドアローンコンプレックスと言います。
この一連の事件に絡んで笑い男を装った大物政治家絡みの企業恫喝など、さまざまな政治的犯罪も生じ、公安9課が捜査をしてゆくという物語になります。


旧作『攻殻機動隊stand alone complex』のポイント

旧作の物語のポイントは、少年ハッカーのアオイ(笑い男のオリジナル)が父のような権威であるセラノ社長や、厚生労働省などの父権的な権力へと挑み、挫折を経験して大人になるという典型的なエディプスコンプレックスの物語をしているということです。
エディプスコンプレックスというのは母子関係において子供が父親と対立、闘争し、敗北を経験することで成長するという精神分析の概念になります。

アオイ(笑い男)

 

このような少年が反抗期を迎えて少年らしい理想のために社会などの父権と戦い敗北を通して自身の限界を知って成長するというのは、平成初期においてはまだ成立していた人類の心理的発達の標準的なモデルだと言えます。
基本的に旧作攻殻機動隊ではアオイ(日本)、作中の最終的な黒幕権力者(アメリカ)という構図をとっているという解釈が可能です。そのため神山監督のなかでは日本という国そのものが父なるアメリカにべったりで、反抗できず少年のままにとどまっているという問題意識があるのかもしれません

ところで作品のタイトルにもなっているスタンドアローンコンプレックスというのは、カリスマの姿を模倣するコンプレックスのことを示す作中にでてくる独自の概念ですが、これは理想的な自己像をカリスマ(笑い男)に見いだし、笑い男が活動を停止して消え去ることで、笑い男の喪失を補うべく大衆が笑い男を自己に内面化することで模倣犯が生じるというものです。このような笑い男(理想像)への同一化は精神分析ではおなじみの現象です。

旧作のように表の社会の背後に陰謀や悪事の黒幕(父)が潜んでいるという世界観のもとに権力に対抗して成長するモデルが平成初期の特徴です。


新作『攻殻機動隊sac_2045』の特徴

今度は新作の特徴を見てゆきましょう。
まず前提として、旧作のアオイ(笑い男)は新作のシマムラタカシ(ビッグブラザー)と同一性があり二人とも少年テロリストになります。なのでアオイ→タカシの変化が重要なポイントになります。

シマムラタカシ(ビッグブラザー)

 

新作では最初こそ、世界の支配者である父なるアメリカが我が物顔で登場してきますが、ポストヒューマンの台頭やその事件はアメリカが発端になるも、完全にアメリカのコントロールを離れてしまっています。
旧作では最後まで倒すことのできない父として君臨したアメリカは新作では影の支配者の座から転落してしまい、父権的な黒幕は新作の世界では打倒されていなくなってしまいます。

実はこのような令和時代における黒幕や父の不在をビッグブラザーは死んだとか、大きな物語はないとかいう言い方をします。現代社会における父の不在は現代評論や臨床心理学の世界では非常に有名です。
そんな父親不在の中で人はいかに成長し大人になるのか、ということが本作の最大の主題となっていると考えることができます。


攻殻機動隊sac_2045』の物語と現代社

まず本作を理解するために父親不在で大人になれない現代人の意識がどのように変質してしまったかを紹介します。
実は令和時代の現代人の認識には特徴があり、それは全ての価値がフォロワー数やPV、お金といった単一の数値、序列に還元されているということです。
そのため、あらゆる動機はフォロワー数などに還元されてしまいます。

そして、このような単一の価値基準は人類の主観と客観の混同をまねくこととなり、そのために数多くの分断が生じていたりします。
なぜ単一の価値観は主観と客観を混同させるのでしょうか?

それは単一の価値観しかないということが、自分の主観的な物の見方や価値観がそのまま普遍的で客観的な物の見方に一致するということを意味してしまうからです。
こうして自分の主観的な思い込みと客観的なことの差異がなくなって自分の世界観が普遍的で正しいと思い込むことでフェイクニュースや分断が蔓延してゆきます。

つまり令和時代の人類は主観が消失して自己の主観が客観化しています。ちなみにこのような主観の客観化を象徴する現代思想として人が神になるというハラリのホモデウスなる未来予想があったりします。
そんな現代人が少年から大人へと成長するためには、客観と化した主観を客観の座から引きずり下ろさねばなりません。
昔の偉い哲学者のデカルトが言うように、客観(的事実)とは疑いうるものであり、人間の意識(主観)では到達不可能なものなのです。


攻殻機動隊sac_2045』の物語の意味とトライアド

さっそくここではどのようにして、本作が主観を客観の座から引きずりおろしたのかを見てゆきましょう。
ところで客観とは物語では神や父によって象徴されるのが一般的です。
というのも客観というのは世界の外にいてこの世界を創造した一神教の神の視点に相当しているからです。
もちろん本作でもそのことが非常に強く意識されています。

そのため本作ではレイドと呼ばれるテロをひきおこした少年シマムラタカシがビッグブラザー(父なる支配者)を名乗り、表社会から消え去るのです。
ビッグブラザーというのは旧作ではアメリカの盗聴システムの名前であり、元ネタはジョージオーウェルの小説『1984』に登場する父なる支配者のことです。
したがってシマムラタカシはビッグブラザーを標榜した時点で、父=客観視点と同化した状態にあります。

ところがタカシは表向きは死んだことになり消え去ります。
これは客観と一致して客観を殺すことを意味し、現代的な父の不在の社会を客観の喪失へと導いています。

ところで本作における客観的事実とはなんでしょうか?
もちろんそれは最終話で少佐がタカシのコードを引き抜いたか否かということになります。
そしてコードを抜いたのか抜いてないのかを知る人物、つまり客観的事実に到達した作中の人物は少佐、シマムラタカシ、江崎プリンの三名になります。

ここに客観へと、つまり神の視点へと到達した三名が三位一体のトライアドとしてそろいます。
なので最終話でタカシが少佐に向かって「あなたはまれなロマン派なので現実と夢の違いがほとんどありません」と言ったのも少佐が完全義体のサイボーグであり人の外部にいる超越的な存在であることを意味しているわけです。

そしてプリンも一度死んでおり、彼岸の神、死の側の存在としてゴースト(主観)を持っていません。このように客観的事実に到達する三人は全員が人外の存在となって、人から切り離されています。

ここで重要なのはキリスト教の三位一体です。
キリスト教では三位一体は父ー息子ー聖霊であり、父が中心となっていますが、本作の三位一体では父がいません。少佐(母)ーシマムラタカシ(息子)ープリン(娘)となっています。このこともまた現代における神の死、父の不在を象徴しています。

ここで本当に少佐たち三人のキャラクターは三位一体なのか疑う読者がいるかもしれないので、この三者の同一性を示す作中のシーンを紹介します。
たとえば高速道路でのアクションシーンでプリンがタチコマの少佐の専用機へ搭乗しているのは、プリンと少佐の同一性を示すためです。また最後に少佐が消え去るラストシーンで着用しているコートがタカシのコートと同じであることは、タカシと少佐の同一性を示しています。このことからも少佐=タカシ=プリンは三位一体の関係にあることは間違いないと考えられます。

本作ではアメリカという父は去勢され、アメリカは父の座から落とされ、アメリカを出し抜いて父の座につけたタカシもまた社会から消え去り不在となります。
こうして本作では父としての客観が到達不可能な死として提示されているわけです。


ダブルシンクとは

ここまでが分かるとダブルシンクの意味も分かってきます。
本作におけるダブルシンクとは自分の認識する客観的事実が本当は個人的な主観に過ぎないことを自覚しつつ、それを客観的なことだと設定して生活するという思考のことです。なのでダブルシンクは明らかに本当の客観的事実は分からないという状態であり、全てが厳密には主観に過ぎないという認識を表しています。

つまりダブルシンクとは、父なる神の死んだこの時代に、父の死を自覚させることによって、したがってビッグブラザーの死によって実現する客観からの主観の分離を意味しています。だからこそ作中でビッグブラザー(タカシ)は少佐に撃たれて死ななければならなかったわけです。


メタフィクションダブルシンク

ところで本作の最大の特徴といえばやはり少佐がタカシのコードを引き抜いたか否かを、アニメ視聴者に見せないところにあります。
これは何を意味するのでしょうか?

もちろんこれは視聴者をダブルシンクにすることにあります。つまり僕たち視聴者というのは、パソコン画面の外から、攻殻機動隊の物語を眺めているわけですが、このようなアニメに対する視聴者の位置は、まさに一神教の神が世界の外部から世界を観測する関係に一致していると分かります。
ところが物語の客観的真実としてのコードの結末を隠すことで視聴者は物語のその他の登場人物と同じく、物語の真実を知らず、抜かれたか否かをダブルシンクするしかない状況へと引き込まれることになります。
このことは視聴者の物語に対する視点を物語の外部、パソコン画面外の神のポジションである客観の視点から引き離し、物語世界の内部へと導く効果があります。こうして画面外の神の視点から人間の視点へと現代人の世界認識を正常化しているわけです。

このように考えると最後に少佐が消える意味もよく分かったりします。
客観に到達した神であり父のポジションにある少佐は消え去れねばならないわけです。客観=父とは本来、不在であり到達不可能だということです。


作中の主題に即しつつメタフィクション構造を利用して画面外の視聴者を画面内に入れ込んだりと、これほど手の込んだ高度な作品は物語研究者の僕としても、めったにお目にかからないもので、本作は間違いなく名作です。
酷評している人の多さに悲しくなります。メタフィクションとしても本作はメタルギアソリッド2に比肩する名作だと言えます。


おまけ

以上が本作の基本的な物語論的な基礎解釈になりますが、けっこう紹介しきれていない小ネタが多いのでいくつかの小ネタをここでは紹介します。
ここで紹介する小ネタは、序盤でトグサが少佐たちを探す本当の理由、バトーというキャラクターの本当の意味、マトリックス攻殻機動隊についてです。

まずは最初に公安9課が解散しておりトグサを残してメンバーが傭兵になってしまっているところから物語が始まっていることの意味を解説します。
これは勘のいい人は分かっていると思いますが、まずトグサは攻殻機動隊のアニメファンの心理を象徴しています。トグサというのは公安9課で唯一のサイボーグ化していない生身の人間であり、もともと最も視聴者の目線に近い感情移入しやすいキャラクターとして設定されています。
そのためにトグサは新作を首を長くして待っていたファンの心理を象徴しているのです。
久々に少佐たちに出会うために探しにでるという冒頭の意味は、僕たちファンの心理をうまく表現しているということにつきます。またトグサが離婚しているのは旧作からの時の流れを表現しています。20年近く前の旧作からはファンのプレイベートな生活も変化している割合は高いと考えらるので適切な設定だと思われます。非常にファンの心理を分かった粋な物語の始め方をしているということが分かります。


次の小ネタはバトーです。
実はバトーは旧作でも今作でもある意味母親的であり、完全義体という機械と人間の中間的存在として両者を橋渡しする役割を担っています。
旧作でいうとタチコマがゴーストを獲得する原因となったのはバトーの欲望です。
旧作でバトーがふるまったバトー専用機への天然オイルは、バトーがタチコマにゴースト(個性)を期待したからに他なりません。このバトーの天然オイルに託した欲望をタチコマが欲望することでゴーストが獲得されたわけです。旧作におけるタチコマの好奇心は全て母なるバトーの欲望を探ることに起源を持っています。

そして新作でもバトーは江崎プリンにプリンをふるまっています。
プリンはプリンに込められたバトーの欲望を欲望して9課に入り、ゴーストを失って機械的な存在へと到達します。プリンに込められたバトーの欲望を探ることで江崎プリンは成長し、バトーの憧れである少佐へと同一化するわけです。


最後の小ネタはマトリックスオマージュの多さです。
僕が発見しただけでも複数のシーンが露骨に映画『マトリックス』シリーズのオマージュになっています。たとえば高速道路でのカーチェイスのシーン、トグサがカナミの真似をして歩道橋を飛び越えようとして落下するシーンなどは、明らかにマトリックスのオマージュになっています。
弾丸をよけるポストヒューマンもマトリックスのエージェントスミスのオマージュかもしれませんし、ジョンスミスとかまんまエージェントスミスでしかないです。
ひょっとしたらタカシのコートもマトリックスの主人公ネオのコートのオーマージュかもしれません。ネオのコートとタカシのコートはそっくりです。
されにコードにつながれたタカシはそのままマトリックスでコードに繋がれたネオの姿に重なります。

左:エージェントスミス、右:ジョンスミス

 

というわけでネオ=タカシと仮定して考えると、旧作と同時期に人気になった映画マトリックスの世界が、コードを引き抜いて客観世界ザイオンに到達した世界だとすれば、本作ではネオのコードが引き抜かれて仮想世界を出たのか出てないのかが分からない世界だと考えることができるかもしれません。それはつまり仮想世界しか存在しない世界、ダブルシンクの世界だということです。

原作の攻殻機動隊にインスパイアされて出てきたマトリックスにインスパイアされた攻殻機動隊sac_2045というのは非常に興味深い弁証法的展開ですが、本作はマトリックスが安直に客観世界へ到達してしまったことの反省が含まれているのかもしれません。