『攻殻機動隊sac_2045』のストーリーを物語研究家が考察してみた!(ネタバレあり)

今回解説する物語はNetflixで独占配信されたアニメ『攻殻機動隊sac_2045』です。
本作は神山健治監督と荒巻伸志監督の作品であり、現代社会論的な要素のある高度な作品なっているのが特徴です。そのため僕のような物語研究者や評論家の解説なしに本作の物語を理解するのは非常に困難な作品とも言えます。


実は本作は同監督(神山のみ)による2002年に放映されたアニメ『攻殻機動隊stand alone complex』の続編としても見れるようになっているので、本作の理解のため、まずは旧作との比較から紹介してゆきます。
(※この記事はネタバレを含みます。)



攻殻機動隊stand alone complex』対『攻殻機動隊sac_2045』

旧作が2002年放映、本作のシーズン1が2020年の放映ということで、そこには20年近いラグがあり、どちらもが現代社会批評的な色調を帯びた作品であるために、両作品の差異は平成初期と令和との時代精神の変化が如実に反映されています。

では具体的にその違いを見てゆきましょう。
まず旧作においてはアメリカという存在が日本にとっての絶対的な父として強力な権力者として描写されているのが特徴です。また他の神山監督作品でも『東のエデン』などではアメリカがそのような存在として意識されています。
なので神山監督は現代日本を敗戦国として、つまり戦後レジーム体制の継続という文脈において捉えていると考えられます。

というわけでアメリカ=父親という精神分析的な軸を中心に読み解くと神山版攻殻機動隊を大筋をつかむことができます。


旧作『攻殻機動隊stand alone complex』の要約


読者には旧作は未視聴の方もいるかもなので、ここで簡単に旧作の概要を示します。

旧作はこてこてのポリティカルフィクションであり、現実に日本で起きた癌治療薬の丸山ワクチン不認可事件を下敷きにした作品です。

攻殻機動隊の世界では電脳硬化症という難病に対する画期的な治療薬である村井ワクチンが利権がらみで不認可にされ、その代わりにマイクロマシン療法の新興企業であるセラノゲノミクス社の全く効果のないマイクロマシン治療が認可され、そのせいで多くの患者が犠牲となりました。

あるとき、そのことを偶然に知った天才少年ハッカーのアオイ(笑い男)は正義感から、その不正を暴くべく企業テロを起こすも、うまくいかず、結果的に笑い男は一つのシンボルとなり、多くの大衆に模倣されるという事件が起こります。この模倣犯のことを作中ではスタンドアローンコンプレックスと言います。
この一連の事件に絡んで笑い男を装った大物政治家絡みの企業恫喝など、さまざまな政治的犯罪も生じ、公安9課が捜査をしてゆくという物語になります。


旧作『攻殻機動隊stand alone complex』のポイント

旧作の物語のポイントは、少年ハッカーのアオイ(笑い男のオリジナル)が父のような権威であるセラノ社長や、厚生労働省などの父権的な権力へと挑み、挫折を経験して大人になるという典型的なエディプスコンプレックスの物語をしているということです。
エディプスコンプレックスというのは母子関係において子供が父親と対立、闘争し、敗北を経験することで成長するという精神分析の概念になります。

アオイ(笑い男)

 

このような少年が反抗期を迎えて少年らしい理想のために社会などの父権と戦い敗北を通して自身の限界を知って成長するというのは、平成初期においてはまだ成立していた人類の心理的発達の標準的なモデルだと言えます。
基本的に旧作攻殻機動隊ではアオイ(日本)、作中の最終的な黒幕権力者(アメリカ)という構図をとっているという解釈が可能です。そのため神山監督のなかでは日本という国そのものが父なるアメリカにべったりで、反抗できず少年のままにとどまっているという問題意識があるのかもしれません

ところで作品のタイトルにもなっているスタンドアローンコンプレックスというのは、カリスマの姿を模倣するコンプレックスのことを示す作中にでてくる独自の概念ですが、これは理想的な自己像をカリスマ(笑い男)に見いだし、笑い男が活動を停止して消え去ることで、笑い男の喪失を補うべく大衆が笑い男を自己に内面化することで模倣犯が生じるというものです。このような笑い男(理想像)への同一化は精神分析ではおなじみの現象です。

旧作のように表の社会の背後に陰謀や悪事の黒幕(父)が潜んでいるという世界観のもとに権力に対抗して成長するモデルが平成初期の特徴です。


新作『攻殻機動隊sac_2045』の特徴

今度は新作の特徴を見てゆきましょう。
まず前提として、旧作のアオイ(笑い男)は新作のシマムラタカシ(ビッグブラザー)と同一性があり二人とも少年テロリストになります。なのでアオイ→タカシの変化が重要なポイントになります。

シマムラタカシ(ビッグブラザー)

 

新作では最初こそ、世界の支配者である父なるアメリカが我が物顔で登場してきますが、ポストヒューマンの台頭やその事件はアメリカが発端になるも、完全にアメリカのコントロールを離れてしまっています。
旧作では最後まで倒すことのできない父として君臨したアメリカは新作では影の支配者の座から転落してしまい、父権的な黒幕は新作の世界では打倒されていなくなってしまいます。

実はこのような令和時代における黒幕や父の不在をビッグブラザーは死んだとか、大きな物語はないとかいう言い方をします。現代社会における父の不在は現代評論や臨床心理学の世界では非常に有名です。
そんな父親不在の中で人はいかに成長し大人になるのか、ということが本作の最大の主題となっていると考えることができます。


攻殻機動隊sac_2045』の物語と現代社

まず本作を理解するために父親不在で大人になれない現代人の意識がどのように変質してしまったかを紹介します。
実は令和時代の現代人の認識には特徴があり、それは全ての価値がフォロワー数やPV、お金といった単一の数値、序列に還元されているということです。
そのため、あらゆる動機はフォロワー数などに還元されてしまいます。

そして、このような単一の価値基準は人類の主観と客観の混同をまねくこととなり、そのために数多くの分断が生じていたりします。
なぜ単一の価値観は主観と客観を混同させるのでしょうか?

それは単一の価値観しかないということが、自分の主観的な物の見方や価値観がそのまま普遍的で客観的な物の見方に一致するということを意味してしまうからです。
こうして自分の主観的な思い込みと客観的なことの差異がなくなって自分の世界観が普遍的で正しいと思い込むことでフェイクニュースや分断が蔓延してゆきます。

つまり令和時代の人類は主観が消失して自己の主観が客観化しています。ちなみにこのような主観の客観化を象徴する現代思想として人が神になるというハラリのホモデウスなる未来予想があったりします。
そんな現代人が少年から大人へと成長するためには、客観と化した主観を客観の座から引きずり下ろさねばなりません。
昔の偉い哲学者のデカルトが言うように、客観(的事実)とは疑いうるものであり、人間の意識(主観)では到達不可能なものなのです。


攻殻機動隊sac_2045』の物語の意味とトライアド

さっそくここではどのようにして、本作が主観を客観の座から引きずりおろしたのかを見てゆきましょう。
ところで客観とは物語では神や父によって象徴されるのが一般的です。
というのも客観というのは世界の外にいてこの世界を創造した一神教の神の視点に相当しているからです。
もちろん本作でもそのことが非常に強く意識されています。

そのため本作ではレイドと呼ばれるテロをひきおこした少年シマムラタカシがビッグブラザー(父なる支配者)を名乗り、表社会から消え去るのです。
ビッグブラザーというのは旧作ではアメリカの盗聴システムの名前であり、元ネタはジョージオーウェルの小説『1984』に登場する父なる支配者のことです。
したがってシマムラタカシはビッグブラザーを標榜した時点で、父=客観視点と同化した状態にあります。

ところがタカシは表向きは死んだことになり消え去ります。
これは客観と一致して客観を殺すことを意味し、現代的な父の不在の社会を客観の喪失へと導いています。

ところで本作における客観的事実とはなんでしょうか?
もちろんそれは最終話で少佐がタカシのコードを引き抜いたか否かということになります。
そしてコードを抜いたのか抜いてないのかを知る人物、つまり客観的事実に到達した作中の人物は少佐、シマムラタカシ、江崎プリンの三名になります。

ここに客観へと、つまり神の視点へと到達した三名が三位一体のトライアドとしてそろいます。
なので最終話でタカシが少佐に向かって「あなたはまれなロマン派なので現実と夢の違いがほとんどありません」と言ったのも少佐が完全義体のサイボーグであり人の外部にいる超越的な存在であることを意味しているわけです。

そしてプリンも一度死んでおり、彼岸の神、死の側の存在としてゴースト(主観)を持っていません。このように客観的事実に到達する三人は全員が人外の存在となって、人から切り離されています。

ここで重要なのはキリスト教の三位一体です。
キリスト教では三位一体は父ー息子ー聖霊であり、父が中心となっていますが、本作の三位一体では父がいません。少佐(母)ーシマムラタカシ(息子)ープリン(娘)となっています。このこともまた現代における神の死、父の不在を象徴しています。

ここで本当に少佐たち三人のキャラクターは三位一体なのか疑う読者がいるかもしれないので、この三者の同一性を示す作中のシーンを紹介します。
たとえば高速道路でのアクションシーンでプリンがタチコマの少佐の専用機へ搭乗しているのは、プリンと少佐の同一性を示すためです。また最後に少佐が消え去るラストシーンで着用しているコートがタカシのコートと同じであることは、タカシと少佐の同一性を示しています。このことからも少佐=タカシ=プリンは三位一体の関係にあることは間違いないと考えられます。

本作ではアメリカという父は去勢され、アメリカは父の座から落とされ、アメリカを出し抜いて父の座につけたタカシもまた社会から消え去り不在となります。
こうして本作では父としての客観が到達不可能な死として提示されているわけです。


ダブルシンクとは

ここまでが分かるとダブルシンクの意味も分かってきます。
本作におけるダブルシンクとは自分の認識する客観的事実が本当は個人的な主観に過ぎないことを自覚しつつ、それを客観的なことだと設定して生活するという思考のことです。なのでダブルシンクは明らかに本当の客観的事実は分からないという状態であり、全てが厳密には主観に過ぎないという認識を表しています。

つまりダブルシンクとは、父なる神の死んだこの時代に、父の死を自覚させることによって、したがってビッグブラザーの死によって実現する客観からの主観の分離を意味しています。だからこそ作中でビッグブラザー(タカシ)は少佐に撃たれて死ななければならなかったわけです。


メタフィクションダブルシンク

ところで本作の最大の特徴といえばやはり少佐がタカシのコードを引き抜いたか否かを、アニメ視聴者に見せないところにあります。
これは何を意味するのでしょうか?

もちろんこれは視聴者をダブルシンクにすることにあります。つまり僕たち視聴者というのは、パソコン画面の外から、攻殻機動隊の物語を眺めているわけですが、このようなアニメに対する視聴者の位置は、まさに一神教の神が世界の外部から世界を観測する関係に一致していると分かります。
ところが物語の客観的真実としてのコードの結末を隠すことで視聴者は物語のその他の登場人物と同じく、物語の真実を知らず、抜かれたか否かをダブルシンクするしかない状況へと引き込まれることになります。
このことは視聴者の物語に対する視点を物語の外部、パソコン画面外の神のポジションである客観の視点から引き離し、物語世界の内部へと導く効果があります。こうして画面外の神の視点から人間の視点へと現代人の世界認識を正常化しているわけです。

このように考えると最後に少佐が消える意味もよく分かったりします。
客観に到達した神であり父のポジションにある少佐は消え去れねばならないわけです。客観=父とは本来、不在であり到達不可能だということです。


作中の主題に即しつつメタフィクション構造を利用して画面外の視聴者を画面内に入れ込んだりと、これほど手の込んだ高度な作品は物語研究者の僕としても、めったにお目にかからないもので、本作は間違いなく名作です。
酷評している人の多さに悲しくなります。メタフィクションとしても本作はメタルギアソリッド2に比肩する名作だと言えます。


おまけ

以上が本作の基本的な物語論的な基礎解釈になりますが、けっこう紹介しきれていない小ネタが多いのでいくつかの小ネタをここでは紹介します。
ここで紹介する小ネタは、序盤でトグサが少佐たちを探す本当の理由、バトーというキャラクターの本当の意味、マトリックス攻殻機動隊についてです。

まずは最初に公安9課が解散しておりトグサを残してメンバーが傭兵になってしまっているところから物語が始まっていることの意味を解説します。
これは勘のいい人は分かっていると思いますが、まずトグサは攻殻機動隊のアニメファンの心理を象徴しています。トグサというのは公安9課で唯一のサイボーグ化していない生身の人間であり、もともと最も視聴者の目線に近い感情移入しやすいキャラクターとして設定されています。
そのためにトグサは新作を首を長くして待っていたファンの心理を象徴しているのです。
久々に少佐たちに出会うために探しにでるという冒頭の意味は、僕たちファンの心理をうまく表現しているということにつきます。またトグサが離婚しているのは旧作からの時の流れを表現しています。20年近く前の旧作からはファンのプレイベートな生活も変化している割合は高いと考えらるので適切な設定だと思われます。非常にファンの心理を分かった粋な物語の始め方をしているということが分かります。


次の小ネタはバトーです。
実はバトーは旧作でも今作でもある意味母親的であり、完全義体という機械と人間の中間的存在として両者を橋渡しする役割を担っています。
旧作でいうとタチコマがゴーストを獲得する原因となったのはバトーの欲望です。
旧作でバトーがふるまったバトー専用機への天然オイルは、バトーがタチコマにゴースト(個性)を期待したからに他なりません。このバトーの天然オイルに託した欲望をタチコマが欲望することでゴーストが獲得されたわけです。旧作におけるタチコマの好奇心は全て母なるバトーの欲望を探ることに起源を持っています。

そして新作でもバトーは江崎プリンにプリンをふるまっています。
プリンはプリンに込められたバトーの欲望を欲望して9課に入り、ゴーストを失って機械的な存在へと到達します。プリンに込められたバトーの欲望を探ることで江崎プリンは成長し、バトーの憧れである少佐へと同一化するわけです。


最後の小ネタはマトリックスオマージュの多さです。
僕が発見しただけでも複数のシーンが露骨に映画『マトリックス』シリーズのオマージュになっています。たとえば高速道路でのカーチェイスのシーン、トグサがカナミの真似をして歩道橋を飛び越えようとして落下するシーンなどは、明らかにマトリックスのオマージュになっています。
弾丸をよけるポストヒューマンもマトリックスのエージェントスミスのオマージュかもしれませんし、ジョンスミスとかまんまエージェントスミスでしかないです。
ひょっとしたらタカシのコートもマトリックスの主人公ネオのコートのオーマージュかもしれません。ネオのコートとタカシのコートはそっくりです。
されにコードにつながれたタカシはそのままマトリックスでコードに繋がれたネオの姿に重なります。

左:エージェントスミス、右:ジョンスミス

 

というわけでネオ=タカシと仮定して考えると、旧作と同時期に人気になった映画マトリックスの世界が、コードを引き抜いて客観世界ザイオンに到達した世界だとすれば、本作ではネオのコードが引き抜かれて仮想世界を出たのか出てないのかが分からない世界だと考えることができるかもしれません。それはつまり仮想世界しか存在しない世界、ダブルシンクの世界だということです。

原作の攻殻機動隊にインスパイアされて出てきたマトリックスにインスパイアされた攻殻機動隊sac_2045というのは非常に興味深い弁証法的展開ですが、本作はマトリックスが安直に客観世界へ到達してしまったことの反省が含まれているのかもしれません。

『LITTLE NIGHTMARES-リトルナイトメア-』のストーリーを物語り研究者が解説してみた!

今回とりあげる物語はゲーム実況でもおなじみのゲーム『LITTLE NIGHTMARES-リトルナイトメア-』です。


この記事では象徴的な描写が多く意味深で、芸術性の高い本作のストーリーの意味と魅力の要因をユング心理学夢分析的な観点から解説してゆきます。
(※この記事はネタバレ全開なのでご注意ください)
それではさっそく深淵なる物語の世界へダイブしてゆきましょう。


リトルナイトメアのストーリーとノイマンユング心理学

本作では海に浮かぶ不気味で巨大な構造物、胃袋を意味する「モウ」の底にいる主人公の少女シックスが上へ上へと向かってゆきます。
実はこのような海の怪物の体内に飲み込まれた主人公が、そこから陽光のもとへと上昇してゆき怪物を突き破って光をもたらすという形式の物語は英雄譚の一つの典型として物語研究では非常に有名なものです。
このタイプの物語は太陽英雄譚として知られており、ユング派の心理学者ノイマンが詳細に、その心理的な意味を分析しているので、ここではそのノイマンの見立てを羅針盤に読者をリトルナイトメアの深みへと案内してゆきます。

リトルナイトメア冒頭、海の怪物(モウ)の闇の底

リトルナイトメアのラスト、モウを上昇し陽光へ到達するシックス



ノイマン理論によるリトルナイトメアの物語の意味

ノイマンによると、この手の物語は人間の自我(自意識、意識)の目覚めを象徴的に表現したものになります。
具体的に説明すると、海や海の怪物(モウ)は母なるものであり母なる無意識として、人間の無意識を象徴しています。
母が無意識と結びつくのは、生まれたての赤ちゃんには意識がなく母親とべったりしており、赤ちゃんの主体は無意識そのもの、つまり母親そのものと融合しているためです。ですから人間の無意識は魔女(母の象徴)や母なる海として母を中心に物語では頻繁に登場します。
たとえば有名な『ヘンゼルとグレーテル』に出てくる魔女も母であり無意識の象徴だったりします。
本作で言えば海でありモウでありレディが母であり無意識の象徴ということになります。

母なるものの象徴、モウ


ここで重要なのは、子供が母なる無意識から自立して自我(意識)を確立するためには、母から自立しなければならないということです。その母からの自立をユング派では「象徴的な母殺し」と言います。
この母殺しを経て子供は反抗期を迎え親から自立してゆくわけです。
というわけでシックスのように自立を目指す子供にとって、これまで自分を包みこんで守ってくれていた母親は、自身の自我を飲み込もうとする巨大な怪物であり胃袋へと変貌することになります。

また子供の自我を象徴する主人公が、母なる怪物を退治して、陽光となり世界を照らすことは、意識の光によって世界と意識的に関わることを示します。
つまり、無意識というのは意識でない部分、目に見えない領域のことを言うので、物語では暗闇や夜として描写されるのですが、意識や自我というのは意識できることなので目で見えることに関連づけられ、そのため意識は、物語ではしばしば光や太陽に象徴されるわけです。なのでシックスの持つランタンなどの小さな灯火は自我の意識の光を表しています。

ここまでの説明から、リトルナイトメアは典型的な母殺しによる子供の自我の誕生を象徴した物語だと分かるわけです。


なぜシックスはお腹をすかせているのか?

シックスはお腹をすかせた少女で物語が進むにつれ、その暴食ぶりを発揮してゆくことになりますがこれは、女性に特有の摂食障害的心理のメタファーになっています。
摂食障害というのは、思春期の女性などに多い神経症の一種で、過食症や拒食症という食い過ぎたり、絶食して餓死することもあるものです。
実はこうした摂食障害は女性の自我の確立に密接に関連しており非常に普遍的な女性の心理を象徴しています。
なぜ摂食障害は女性に固有なのかといえば、それは女性は大人になるにあたり思春期頃に身体が急速に変化するからです。女性は妊娠や出産をする能力のために思春期に身体が急激に変化し、女性の心理的な成長はそうした激変する自己の身体と、いかに向き合うかにかかっているわけです。

身体というのは食事によって作られるので、母のような女性への身体的変化に抵抗があると拒食症になってしまう可能性が出てくるわけです。
また母とは、これまでの説明から分かるように子供の自意識を飲み込むものであり、その意味では暴食や胃袋を示すものでもあります。よってシックスの空腹は拒食症を、暴食は過食症を意味しています。
そして実は、このような両極端(アンビバレント)な心理は摂食障害の最大の特徴とされるものです。
事実、拒食症の人は過食症へ、過食症の人は拒食症へと移行することがよくあります。
これは大人になる経過での少女の揺れ動く心理を示しているといえるでしょう。
ちなみに、『鬼滅の刃』のヒロインねずこが人食い鬼になってから断食するのもシックスと全く同じ摂食障害の両極端の心理を象徴しています。

ところでラストでシックスがレディを倒して食べることの意味はいろんな解釈ができますが、一つには、拒絶していた内なる母性、女性性を受け入れ、自我意識に取り入れたと捉えることができます。

母の象徴、レディ


作中のいろんな象徴表現の意味


ここでは作中に登場する双子のシェフ、二つのトイレ、鏡、ゲスト、ダクトの意味を解説してゆきます。

双子のシェフ

 

まず双子のシェフですが、双子のモチーフは意識の成立の最初の兆しとしてユング心理学では解釈されます。
つまり最初は無意識しかなく世界は一つなわけですが、双子のように世界が意識と無意識に分離することをしめします。
さらにそれは自我(自意識)の成立により、自分の自意識により意識される自己と、自意識として自分を意識する自己の分裂も示しています。
なので双子のシェフは少女が自我を確立する過程で生じる自意識の目覚めとしての自己の分裂を意味していると解釈できます。

二つのトイレ

 

次に二つのトイレですが、じつはトイレというのは人間の自我意識の獲得と密接に関連していることが知られています。
トイレの歴史をみると実は個室のトイレが普及したのは近代になってからであり、それ以前のトイレは個室ではありませんでした。トイレというのは夢分析でも人間の内面を示しており、個人という観念がなく内面や主観が共有されていた前近代的な時代ではトイレは個室を形成するに至らないわけです。
これはつまり個人の内面が他者から隔絶され、隠されているからこそ恥ずかしいという感情が生まれ、見られるのが恥ずかしくなり、トイレが個室になる必要が出てきたとも言えます。

近代的な自我というのは母から切り離されることで可能であり、それはつまり母に隠し事をすること、母の知らないことを企むことだとも言えます。こうして秘密をもち隠すからこそ、それがバレるのが恥ずかしいという感情が可能になり、トイレが個室になるわけです。
そのような隠された個人の内面、自意識の場所を示すトイレが二つに分裂しているということは、これも自意識によって自己が二つに分裂しつつあることを示します。物語が進むにつれ段階的にシックスが成長していっていることがこうしたオブジェクトの出現から分かるわけです。

 

鏡についてですが、これもそのまま自意識をしめしています。
つまり鏡に映る姿を見て、人は自己イメージを獲得し、自我を獲得するわけです。
この鏡に照らして母親のメタファであるレディを退治することが意味するのは、母なる無意識を意識の光で照らすこと、つまり無意識を無意識として認識して無意識から距離をとることを意味します。
また直接見るのでなく鏡を介して見るというあり方は母子一体の関係から言葉を介した大人の親子関係を構築することとしても解釈可能です。

ゲスト

 

ゲストについていうと彼らの食事の取り方も重要で、彼らは、ごちゃ混ぜの料理や皿に分けられていないテーブルにそのまま置かれた食事をとっています。実は個別に分けられた皿やコース料理というのは歴史的には非常に新しいもので、これも近代に、つまり個としての自我を人類が獲得したことで生じたスタイルになります。
つまり彼らは近代的な自我を獲得していない母子未分化の人物であり、その意味で母の忠実な子供のメタファだと言えます。なのでゲストがシックスに襲いかかるのは母に背き象徴的な母殺しを企むシックスを母に代わって粛正するためだと解釈できます。

ちなみに、このような母の忠実な子供をユング派ではウロボロス的父性とかいったりします。
ウロボロス的父性は日本人に顕著とされ、たとえば空気や権力者の意向に逆らって自分の意見を言うと、空気に従い先生や上司の命令に忠実な優等生キャラが一丸となって、その人を罵倒するというよくある日本的な現象に典型されるものです。
なのでゲストというのは女性が活躍する現代に、それを認めないタイプの男性を象徴しているのかもしれません。

ダクト

 

ダクトについていうと、本作では通気口などからダクトなどの細い通路を経由して移動するシーンが目立つのですが、これの意味するところは、産道の通過と誕生だと考えられます。
自我の誕生というのは、そのまま子供が母の腹の中から産道を通過して誕生することに象徴されることが多いので、自我という心的な誕生をモウのなかで象徴的に繰り返すことでシックスが成長してきていることを示しているのだと考えられます。
それはつまり、この物語がモウという母の胎内(産道)を抜け出して外へ出るという内容であることに関連し、ダクトを灯火で照らして突破するという物語内の一部のシーンに、その物語の全体の流れが象徴されているということでもあります。
(モウという母の胎内を抜けて光りの元に出る=ダクトを通過するということ。)

このように解釈すると母なる海の上に海それ自身を象徴するモウがあり、さらにモウの中にモウを象徴するレディがいるというような、本作の象徴表現の入れ子構造(メタ)も、より納得がいくわけです。


リトルナイトメアと現代社

最後になぜリトルナイトメアのような物語がこの時代に出てきたのかについて分析してこの記事を終わりにしたいと思います。
実はリトルナイトメアとノイマンの太陽英雄譚には異なる点があります。
ノイマンによると太陽英雄譚の英雄は男であり女性ではないのです。
したがって現代における女性の社会進出などによる女性の意識変革と、それを介した男性の意識変革というものを本作では象徴的にあつかい、それを心理的に基礎づけようとしているのかもしれません。

また現代社会では個人主義でありながら、個としての自我を確立するのが非常に困難になってきているとも言われています。そのため、自我の獲得に向けた何らかの新しい神話が現代には必要であり、その新しい自我獲得のための物語の一つとしてリトルナイトメアがあるのかもしれません。

ラストでシックスがレディを食べてゲストを虐殺してゆくシーンなどを見るとなんとも言えない気になります。まだリトルナイトメアの物語では新しい時代における自我の獲得の神話として不足しているところがあるのでしょう。
リトルナイトメアはさらなる神話創出のための最初の一歩となるべく世に出されたのかもしれません。

 

「チェンソーマン」の人気を物語研究者が考察!

この記事では少年ジャンプにて連載され累計売り上げ2400万部を超える人気漫画『チェンソーマン』(藤本タツキ)の漫画の隠された魅惑に迫ります。


チェンソーマンの最大の特徴

実はこの漫画、これまでの少年漫画とは異質の特徴を備えています。
これまでの少年漫画や小説のキャラクターというのは基本的には目的意識を持ち、自我がはっきりしており、たとえば『ナルト』であれば火影になることを目標に強い自我と目的意識を持っていたりします。

ところがこの漫画では主人公のデンジは全くそのような目的意識をもっていません。そればかりか時間の意識からしてバラバラであり、まったく目的へとつながることのない、バラバラの今の連続を生きています。
つまりきわめて刹那主義的なのです。
明確な目的や自己のアイデンティティを持たず、それゆえに今だけにしか生きていない、だからこそデンジはその場しのぎで眼などの臓器を売ってしまい、その身体の統一的なイメージさえもおぼつかなくなっているようです。

ところで、このような今しかないキャラクターのことを物語研究の世界ではポストモダン的主体といいます。このような主体は現代人の最大の特徴であり、昭和にはあまり見られない主体とされています。
先ほど例示したナルトを昭和的な近代主体とすればデンジは令和のポストモダン的主体であり、その点では村上春樹の小説の主人公と非常に近い心の持ち主ということができます。

ちなみにいわゆる「今だけ金だけ時間だけ」という現代社会を揶揄する標語も、デンジのような今だけしかなくなった現代人の心を言い当てていると考えられます。
このようにデンジが極めて現代的な若者の心を典型しているところも本作の人気の一因となっているに違いありません。


人気の理由とチェンソーマンの物語の意味

ではここからは具体的にチェンソーマンの物語の内容を解説してゆきましょう。
デンジは序盤で既に右目、腎臓、金玉の片方を父親の残した借金の返済のため、売却しています。
このようなバラバラにされて欠けた身体は彼の自己イメージの曖昧さとバラバラさを象徴していると考えるのが物語分析としては一般的です。
というのも人間や動物の自意識(自我)というのは、たとえば動物実験のミラーテストで動物に鏡を見せて、そこに映る身体像が自己自身であると判別できるかによって自意識の有無を調べるものがあることからも分かるように、自己の統一的な身体イメージによって構成されています。

なのでデンジの序盤の欠損した身体は、そのまま彼の曖昧な自己イメージを意味し、それはつまり統一的な目的意識によってまとめられることのないバラバラの今の寄せ集めとしての自己を象徴していると考えられます。

そのようなデンジも序盤で借金取りのヤクザの親分に裏切られ襲われると、唯一の親友であるポチタと融合しチェンソーマンとして復活することで、欠損した身体を回復します。
これは、今だけ自分だけだった彼の自己イメージや時間意識が変化し、より成長した自我を確立した人間になってゆく最初の兆しを示しています。彼の身体欠損が回復するのは彼の自己イメージが統一性を獲得しつつあることを示しているわけです。

しかしながらそれは非常に不安定であり、チェンソーマンはそのため世界を切り刻むものであり、そのことはデンジの世界観がまだバラバラに刻まれた統一性のない状態であることを示しているのです。
とはいえなんとか統一的な身体イメージを獲得したことで、デンジのもとにマキマという、はじめての絶対的な他者があらわれることになります。
勘のいい読者やアニメ視聴者は既にお気づきと思いますが、もちろんマキマは母親を象徴しています。
つまり今だけ自分だけの世界では、自分しかいないので自分の外部としての他者が存在しません、したがって本当の意味での他者は現れてこないわけです。自分と異なる世界観や内面を持った絶対的な他者というのは、統一的な自我イメージを獲得することで生じるものだということです。

そんな母であり絶対的他者であるマキマは公安に勤務する社会的な存在になります。
そんな母親の承認を求めてデンジはマキマからの要請に応え、マキマの命令に従うことでマキマと一つになろうとするわけです。
しかし母親の言うことを忠実にきき、母に母乳を与えられ完全に満足しきった子供には自我や主体性が生じません。これでは命令に従うだけのロボットと同じです。というわけでデンジがマキマにうどんを食べさせてもらうシーンは、授乳の象徴になっていたりします。

マキマにうどんを食べさてもらうデンジ(母による授乳のメタファー)




もちろんこのままではデンジは成長できません、ずっとマキマの人形では自己を確立できないからです。
そこで大事なのが母の不在になります。この漫画は非常によくできていて、マキマは公安の仕事が忙しくデンジの前から頻繁に姿を消すわけです。
つまりマキマの欲望や関心はデンジだけでなく仕事にもむいており、そのためにマキマは頻繁にデンジの前から消えるわけです。するとマキマの関心を独り占めし母と一体になりたいデンジとしてはマキマの別の欲望の対象となっている公安の仕事に興味がでてくることになります。
こうして母の自分以外に向けられた関心の正体を探り、それを手にして再び母であるマキマと一緒になるためにデンジは社会へと自らを疎外し、そこでアキというライバル(母を奪い合う兄弟)に出会うことになります。そこでライバルのアキを模倣してネクタイをしめ社会的な人間としての自己を確立することに成功してゆくわけです。

ここまでの説明で分かるように、チェンソーマン』は「今だけ」にしか生きることのできなくなった現代人の心を普遍的な成長の経路を通じて大人へと導き、現代人が失ってしまった心を取り戻す経過を描いた作品になっており、そのために若い世代を筆頭に多くの現代人の心を捉えて離さない魅力的なものになっているわけです。

実はここに示したこのような一連の子供の成長過程はラカン派という精神分析の一連の主体の確立のモデルと細部に至るまで忠実に一致していたりします。そしてラカンの理論を使うことで、デンジがキスをしてトラウマを持ったり、胸をもんでもこんなものかと興ざめすることなど、その他多くの描写の意味も、辻褄のあう仕方で説明可能になります。
そのため作者の藤本タツキラカン精神分析を知っている可能性が高いと言えるでしょう。