『LITTLE NIGHTMARES-リトルナイトメア-』のストーリーを物語り研究者が解説してみた!

今回とりあげる物語はゲーム実況でもおなじみのゲーム『LITTLE NIGHTMARES-リトルナイトメア-』です。


この記事では象徴的な描写が多く意味深で、芸術性の高い本作のストーリーの意味と魅力の要因をユング心理学夢分析的な観点から解説してゆきます。
(※この記事はネタバレ全開なのでご注意ください)
それではさっそく深淵なる物語の世界へダイブしてゆきましょう。


リトルナイトメアのストーリーとノイマンユング心理学

本作では海に浮かぶ不気味で巨大な構造物、胃袋を意味する「モウ」の底にいる主人公の少女シックスが上へ上へと向かってゆきます。
実はこのような海の怪物の体内に飲み込まれた主人公が、そこから陽光のもとへと上昇してゆき怪物を突き破って光をもたらすという形式の物語は英雄譚の一つの典型として物語研究では非常に有名なものです。
このタイプの物語は太陽英雄譚として知られており、ユング派の心理学者ノイマンが詳細に、その心理的な意味を分析しているので、ここではそのノイマンの見立てを羅針盤に読者をリトルナイトメアの深みへと案内してゆきます。

リトルナイトメア冒頭、海の怪物(モウ)の闇の底

リトルナイトメアのラスト、モウを上昇し陽光へ到達するシックス



ノイマン理論によるリトルナイトメアの物語の意味

ノイマンによると、この手の物語は人間の自我(自意識、意識)の目覚めを象徴的に表現したものになります。
具体的に説明すると、海や海の怪物(モウ)は母なるものであり母なる無意識として、人間の無意識を象徴しています。
母が無意識と結びつくのは、生まれたての赤ちゃんには意識がなく母親とべったりしており、赤ちゃんの主体は無意識そのもの、つまり母親そのものと融合しているためです。ですから人間の無意識は魔女(母の象徴)や母なる海として母を中心に物語では頻繁に登場します。
たとえば有名な『ヘンゼルとグレーテル』に出てくる魔女も母であり無意識の象徴だったりします。
本作で言えば海でありモウでありレディが母であり無意識の象徴ということになります。

母なるものの象徴、モウ


ここで重要なのは、子供が母なる無意識から自立して自我(意識)を確立するためには、母から自立しなければならないということです。その母からの自立をユング派では「象徴的な母殺し」と言います。
この母殺しを経て子供は反抗期を迎え親から自立してゆくわけです。
というわけでシックスのように自立を目指す子供にとって、これまで自分を包みこんで守ってくれていた母親は、自身の自我を飲み込もうとする巨大な怪物であり胃袋へと変貌することになります。

また子供の自我を象徴する主人公が、母なる怪物を退治して、陽光となり世界を照らすことは、意識の光によって世界と意識的に関わることを示します。
つまり、無意識というのは意識でない部分、目に見えない領域のことを言うので、物語では暗闇や夜として描写されるのですが、意識や自我というのは意識できることなので目で見えることに関連づけられ、そのため意識は、物語ではしばしば光や太陽に象徴されるわけです。なのでシックスの持つランタンなどの小さな灯火は自我の意識の光を表しています。

ここまでの説明から、リトルナイトメアは典型的な母殺しによる子供の自我の誕生を象徴した物語だと分かるわけです。


なぜシックスはお腹をすかせているのか?

シックスはお腹をすかせた少女で物語が進むにつれ、その暴食ぶりを発揮してゆくことになりますがこれは、女性に特有の摂食障害的心理のメタファーになっています。
摂食障害というのは、思春期の女性などに多い神経症の一種で、過食症や拒食症という食い過ぎたり、絶食して餓死することもあるものです。
実はこうした摂食障害は女性の自我の確立に密接に関連しており非常に普遍的な女性の心理を象徴しています。
なぜ摂食障害は女性に固有なのかといえば、それは女性は大人になるにあたり思春期頃に身体が急速に変化するからです。女性は妊娠や出産をする能力のために思春期に身体が急激に変化し、女性の心理的な成長はそうした激変する自己の身体と、いかに向き合うかにかかっているわけです。

身体というのは食事によって作られるので、母のような女性への身体的変化に抵抗があると拒食症になってしまう可能性が出てくるわけです。
また母とは、これまでの説明から分かるように子供の自意識を飲み込むものであり、その意味では暴食や胃袋を示すものでもあります。よってシックスの空腹は拒食症を、暴食は過食症を意味しています。
そして実は、このような両極端(アンビバレント)な心理は摂食障害の最大の特徴とされるものです。
事実、拒食症の人は過食症へ、過食症の人は拒食症へと移行することがよくあります。
これは大人になる経過での少女の揺れ動く心理を示しているといえるでしょう。
ちなみに、『鬼滅の刃』のヒロインねずこが人食い鬼になってから断食するのもシックスと全く同じ摂食障害の両極端の心理を象徴しています。

ところでラストでシックスがレディを倒して食べることの意味はいろんな解釈ができますが、一つには、拒絶していた内なる母性、女性性を受け入れ、自我意識に取り入れたと捉えることができます。

母の象徴、レディ


作中のいろんな象徴表現の意味


ここでは作中に登場する双子のシェフ、二つのトイレ、鏡、ゲスト、ダクトの意味を解説してゆきます。

双子のシェフ

 

まず双子のシェフですが、双子のモチーフは意識の成立の最初の兆しとしてユング心理学では解釈されます。
つまり最初は無意識しかなく世界は一つなわけですが、双子のように世界が意識と無意識に分離することをしめします。
さらにそれは自我(自意識)の成立により、自分の自意識により意識される自己と、自意識として自分を意識する自己の分裂も示しています。
なので双子のシェフは少女が自我を確立する過程で生じる自意識の目覚めとしての自己の分裂を意味していると解釈できます。

二つのトイレ

 

次に二つのトイレですが、じつはトイレというのは人間の自我意識の獲得と密接に関連していることが知られています。
トイレの歴史をみると実は個室のトイレが普及したのは近代になってからであり、それ以前のトイレは個室ではありませんでした。トイレというのは夢分析でも人間の内面を示しており、個人という観念がなく内面や主観が共有されていた前近代的な時代ではトイレは個室を形成するに至らないわけです。
これはつまり個人の内面が他者から隔絶され、隠されているからこそ恥ずかしいという感情が生まれ、見られるのが恥ずかしくなり、トイレが個室になる必要が出てきたとも言えます。

近代的な自我というのは母から切り離されることで可能であり、それはつまり母に隠し事をすること、母の知らないことを企むことだとも言えます。こうして秘密をもち隠すからこそ、それがバレるのが恥ずかしいという感情が可能になり、トイレが個室になるわけです。
そのような隠された個人の内面、自意識の場所を示すトイレが二つに分裂しているということは、これも自意識によって自己が二つに分裂しつつあることを示します。物語が進むにつれ段階的にシックスが成長していっていることがこうしたオブジェクトの出現から分かるわけです。

 

鏡についてですが、これもそのまま自意識をしめしています。
つまり鏡に映る姿を見て、人は自己イメージを獲得し、自我を獲得するわけです。
この鏡に照らして母親のメタファであるレディを退治することが意味するのは、母なる無意識を意識の光で照らすこと、つまり無意識を無意識として認識して無意識から距離をとることを意味します。
また直接見るのでなく鏡を介して見るというあり方は母子一体の関係から言葉を介した大人の親子関係を構築することとしても解釈可能です。

ゲスト

 

ゲストについていうと彼らの食事の取り方も重要で、彼らは、ごちゃ混ぜの料理や皿に分けられていないテーブルにそのまま置かれた食事をとっています。実は個別に分けられた皿やコース料理というのは歴史的には非常に新しいもので、これも近代に、つまり個としての自我を人類が獲得したことで生じたスタイルになります。
つまり彼らは近代的な自我を獲得していない母子未分化の人物であり、その意味で母の忠実な子供のメタファだと言えます。なのでゲストがシックスに襲いかかるのは母に背き象徴的な母殺しを企むシックスを母に代わって粛正するためだと解釈できます。

ちなみに、このような母の忠実な子供をユング派ではウロボロス的父性とかいったりします。
ウロボロス的父性は日本人に顕著とされ、たとえば空気や権力者の意向に逆らって自分の意見を言うと、空気に従い先生や上司の命令に忠実な優等生キャラが一丸となって、その人を罵倒するというよくある日本的な現象に典型されるものです。
なのでゲストというのは女性が活躍する現代に、それを認めないタイプの男性を象徴しているのかもしれません。

ダクト

 

ダクトについていうと、本作では通気口などからダクトなどの細い通路を経由して移動するシーンが目立つのですが、これの意味するところは、産道の通過と誕生だと考えられます。
自我の誕生というのは、そのまま子供が母の腹の中から産道を通過して誕生することに象徴されることが多いので、自我という心的な誕生をモウのなかで象徴的に繰り返すことでシックスが成長してきていることを示しているのだと考えられます。
それはつまり、この物語がモウという母の胎内(産道)を抜け出して外へ出るという内容であることに関連し、ダクトを灯火で照らして突破するという物語内の一部のシーンに、その物語の全体の流れが象徴されているということでもあります。
(モウという母の胎内を抜けて光りの元に出る=ダクトを通過するということ。)

このように解釈すると母なる海の上に海それ自身を象徴するモウがあり、さらにモウの中にモウを象徴するレディがいるというような、本作の象徴表現の入れ子構造(メタ)も、より納得がいくわけです。


リトルナイトメアと現代社

最後になぜリトルナイトメアのような物語がこの時代に出てきたのかについて分析してこの記事を終わりにしたいと思います。
実はリトルナイトメアとノイマンの太陽英雄譚には異なる点があります。
ノイマンによると太陽英雄譚の英雄は男であり女性ではないのです。
したがって現代における女性の社会進出などによる女性の意識変革と、それを介した男性の意識変革というものを本作では象徴的にあつかい、それを心理的に基礎づけようとしているのかもしれません。

また現代社会では個人主義でありながら、個としての自我を確立するのが非常に困難になってきているとも言われています。そのため、自我の獲得に向けた何らかの新しい神話が現代には必要であり、その新しい自我獲得のための物語の一つとしてリトルナイトメアがあるのかもしれません。

ラストでシックスがレディを食べてゲストを虐殺してゆくシーンなどを見るとなんとも言えない気になります。まだリトルナイトメアの物語では新しい時代における自我の獲得の神話として不足しているところがあるのでしょう。
リトルナイトメアはさらなる神話創出のための最初の一歩となるべく世に出されたのかもしれません。