「チェンソーマン」の人気を物語研究者が考察!

この記事では少年ジャンプにて連載され累計売り上げ2400万部を超える人気漫画『チェンソーマン』(藤本タツキ)の漫画の隠された魅惑に迫ります。


チェンソーマンの最大の特徴

実はこの漫画、これまでの少年漫画とは異質の特徴を備えています。
これまでの少年漫画や小説のキャラクターというのは基本的には目的意識を持ち、自我がはっきりしており、たとえば『ナルト』であれば火影になることを目標に強い自我と目的意識を持っていたりします。

ところがこの漫画では主人公のデンジは全くそのような目的意識をもっていません。そればかりか時間の意識からしてバラバラであり、まったく目的へとつながることのない、バラバラの今の連続を生きています。
つまりきわめて刹那主義的なのです。
明確な目的や自己のアイデンティティを持たず、それゆえに今だけにしか生きていない、だからこそデンジはその場しのぎで眼などの臓器を売ってしまい、その身体の統一的なイメージさえもおぼつかなくなっているようです。

ところで、このような今しかないキャラクターのことを物語研究の世界ではポストモダン的主体といいます。このような主体は現代人の最大の特徴であり、昭和にはあまり見られない主体とされています。
先ほど例示したナルトを昭和的な近代主体とすればデンジは令和のポストモダン的主体であり、その点では村上春樹の小説の主人公と非常に近い心の持ち主ということができます。

ちなみにいわゆる「今だけ金だけ時間だけ」という現代社会を揶揄する標語も、デンジのような今だけしかなくなった現代人の心を言い当てていると考えられます。
このようにデンジが極めて現代的な若者の心を典型しているところも本作の人気の一因となっているに違いありません。


人気の理由とチェンソーマンの物語の意味

ではここからは具体的にチェンソーマンの物語の内容を解説してゆきましょう。
デンジは序盤で既に右目、腎臓、金玉の片方を父親の残した借金の返済のため、売却しています。
このようなバラバラにされて欠けた身体は彼の自己イメージの曖昧さとバラバラさを象徴していると考えるのが物語分析としては一般的です。
というのも人間や動物の自意識(自我)というのは、たとえば動物実験のミラーテストで動物に鏡を見せて、そこに映る身体像が自己自身であると判別できるかによって自意識の有無を調べるものがあることからも分かるように、自己の統一的な身体イメージによって構成されています。

なのでデンジの序盤の欠損した身体は、そのまま彼の曖昧な自己イメージを意味し、それはつまり統一的な目的意識によってまとめられることのないバラバラの今の寄せ集めとしての自己を象徴していると考えられます。

そのようなデンジも序盤で借金取りのヤクザの親分に裏切られ襲われると、唯一の親友であるポチタと融合しチェンソーマンとして復活することで、欠損した身体を回復します。
これは、今だけ自分だけだった彼の自己イメージや時間意識が変化し、より成長した自我を確立した人間になってゆく最初の兆しを示しています。彼の身体欠損が回復するのは彼の自己イメージが統一性を獲得しつつあることを示しているわけです。

しかしながらそれは非常に不安定であり、チェンソーマンはそのため世界を切り刻むものであり、そのことはデンジの世界観がまだバラバラに刻まれた統一性のない状態であることを示しているのです。
とはいえなんとか統一的な身体イメージを獲得したことで、デンジのもとにマキマという、はじめての絶対的な他者があらわれることになります。
勘のいい読者やアニメ視聴者は既にお気づきと思いますが、もちろんマキマは母親を象徴しています。
つまり今だけ自分だけの世界では、自分しかいないので自分の外部としての他者が存在しません、したがって本当の意味での他者は現れてこないわけです。自分と異なる世界観や内面を持った絶対的な他者というのは、統一的な自我イメージを獲得することで生じるものだということです。

そんな母であり絶対的他者であるマキマは公安に勤務する社会的な存在になります。
そんな母親の承認を求めてデンジはマキマからの要請に応え、マキマの命令に従うことでマキマと一つになろうとするわけです。
しかし母親の言うことを忠実にきき、母に母乳を与えられ完全に満足しきった子供には自我や主体性が生じません。これでは命令に従うだけのロボットと同じです。というわけでデンジがマキマにうどんを食べさせてもらうシーンは、授乳の象徴になっていたりします。

マキマにうどんを食べさてもらうデンジ(母による授乳のメタファー)




もちろんこのままではデンジは成長できません、ずっとマキマの人形では自己を確立できないからです。
そこで大事なのが母の不在になります。この漫画は非常によくできていて、マキマは公安の仕事が忙しくデンジの前から頻繁に姿を消すわけです。
つまりマキマの欲望や関心はデンジだけでなく仕事にもむいており、そのためにマキマは頻繁にデンジの前から消えるわけです。するとマキマの関心を独り占めし母と一体になりたいデンジとしてはマキマの別の欲望の対象となっている公安の仕事に興味がでてくることになります。
こうして母の自分以外に向けられた関心の正体を探り、それを手にして再び母であるマキマと一緒になるためにデンジは社会へと自らを疎外し、そこでアキというライバル(母を奪い合う兄弟)に出会うことになります。そこでライバルのアキを模倣してネクタイをしめ社会的な人間としての自己を確立することに成功してゆくわけです。

ここまでの説明で分かるように、チェンソーマン』は「今だけ」にしか生きることのできなくなった現代人の心を普遍的な成長の経路を通じて大人へと導き、現代人が失ってしまった心を取り戻す経過を描いた作品になっており、そのために若い世代を筆頭に多くの現代人の心を捉えて離さない魅力的なものになっているわけです。

実はここに示したこのような一連の子供の成長過程はラカン派という精神分析の一連の主体の確立のモデルと細部に至るまで忠実に一致していたりします。そしてラカンの理論を使うことで、デンジがキスをしてトラウマを持ったり、胸をもんでもこんなものかと興ざめすることなど、その他多くの描写の意味も、辻褄のあう仕方で説明可能になります。
そのため作者の藤本タツキラカン精神分析を知っている可能性が高いと言えるでしょう。